<第三十六話>赤の水玉模様を着込む少女 Dolly Varden(上)

何かへの予感

その谷を跨ぐ橋の周囲では 水際まで葦や雑草
が迫り 普通の攻め方では攻略する事覚束無く
一瞥残し 釣り人は通り過ぎてしまうのだろうか
その姿さえ見かけたことは無かった?
藪漕ぎを避け 谷に降り立つ唯一のルートは
若干路を戻り ガードレールを跨ぎ 剥き出しの
ガレ場を足裏で押えながら 慎重に下り背丈程の
葦を押し分け 後は膝上位の落ち込みに飛降りる
枝谷用 ニ間半の竿に一間程の仕掛 道糸の先
其処には2B3Bの大きめの錘は まず両岸から
張巡らされた 蜘蛛の巣を絡めとっては其の侭の
体制でポイントに落とし込んで遣る そんな釣方
だから いち々ラインを扱き粘り付いた蜘蛛の糸を
取り除いてやらないとゴテゴテに そのうちには
どっちがラインか蜘蛛の糸か 解らなく成っちまう
そんな小谷での私だけの秘密 そこの魚だけが
何故かエビズル(葡萄虫)への反応が強くて
他の餌では見向きさえしてくれない事が多かった
バイオ等と手軽なものは勿論無かった時代の話である この谷攻略の為だけ 春先買い集めた沢山の
天然エビズルは冷蔵庫奥で出番その時に備えていた 釣り方は文字とおりの提灯釣で 狭いポイント頭上から
そっと落とし込むと魚信は直ぐ来る 大抵は落ち込み発泡底向け クン!と引き込むか 岸の葦根元向かい
ツゥゥッ・・と明確に移動するもの 向う合わせみたいに竿を立てるだけで 魚は抜きあがる まぁ其処しか
竿を持っていく場所が無い言えばそうなのだが。。 水量豊かに流下る 大きな淵を連ねる本流狙いよりも
概して魚は太く大型で この細流での豊穣さが窺い知れる時だ 両岸から枝葉が覆いトンネル状の場所では
身を屈め前へ進むと スーッ!と上流向け魚影が逃げ込む なにこれは 先かその先位で釣れて来る奴で
振り出し竿を先端から引き出し 餌の葡萄虫は水面を引き摺られ深みへと沈んだ? 自ら絡んだ餌に戸惑って
居るのか 水中で反転身を捩る魚影は先の深みへと入った 明確なサインは現れないのだが 勘を頼りに
竿尻を両手に持ち  えい!とばかり後方へ引いてやる そんな合わせ方しか無いのである   ガツン!
バシャッ!飛沫を散らす かけた! ぐっぐっぐっ。。 僅かばかりの深み向け逃げ込もうとする渓魚 竿尻から
手際よく畳んで行くと スッ!と手前の浅場にまで出てきた そいつを横から岸の砂地向け蹴り上げてやった
ドタドタと砂まみれに成るアマゴ 竿を放り出し押さえ込む こんな大型魚に良く出会えたもので この小さな
谷でも いったい幾つの尺上を得た事か・・・

”又此処に来てしまった” 橋の上に立つ私 しかしその日は視線を送る先 方向が違っていた 幾人もの
釣り人が通り過ぎるだろうこの谷 探る釣り人見掛けないのは 深い草つき釣難いと云った理由もあろうが
100mばかり先 隠れて見えないのだが 立ちはだかる壁 黒い垂直の其れは勢い良く吐き出される落水と
両岸は垂直に近いガレ場 僅かなクロ(カモシカ)の踏み後ぐらいが残るばかり それは人の挑みを拒絶する
かのように迫り 釣り人の意欲を萎えさせるに違いない 遠く対岸から望む源頭部は 両岸は峰々向けて
そそり立ち搾られるように圧迫されて居る 落差は当然のようにきつく 滝の連続と成り高みへと駆け上がる
そこは釣果どころの話では無いのかもしれない  その源は達成感とリスクの間で 釣人にとり遠い存在と
成りつつあるのか? そぅ解って居た筈 なのにその日の私は 何かに憑かれたかの様に 未知の領域へと
心は囚われていた  何時ものスペースに車を入れ 徒歩で今過ぎた路を引き返し 幾等か行った丸いカーブ
ミラーの向こう路肩が膨れている辺りで 山仕事の踏み跡作業路の痕跡を探し始めた 車道沿って成された
植林帯では 例外なく樵路や横手等が有る筈 しかし中々見当たらない? 此処は野獣が夜間水飲みに降りて
来るルート獣路そいつに目をつけ 尾根の末端先の方でだらり間延びの地形に取り付き点を求めた 入り口の
雑草を掻き分け登り出すと 一抱えほどの檜の森は下部が透け見通しは悪くない ここいらでも人の生業が
有っただろう名残 石積みが連なる場所を乗り越える その昔は住居が有ったのかもしれない? そぅいえば
伊勢湾台風の大出水により 生活を捨て無人となった集落もあった! しかし下の部落にはまだ数軒山人の
生活も残る 手が入らないと云っても 人間社会の臭い痕跡が目立つ山塊ではあった。
右手に谷の切れ込みを見失わないよう 件の滝の高さまでと登り続ける もう随分長い事人も立入って無い
雰囲気の森の中を ひたすら上へと目差す そう云えば近隣には熊用の箱罠も仕掛けてあった 生息数も
多いのだろうが 足元の獣路にはその痕跡は解らない 一気に高さを稼ぎ現在位置を見極め一息とった。
荒い息が収まるにつれ 辺りは遺物を排し有るがままの姿に戻りつつあって 悠久の時の流れに漂い揉まれ
弄ばれる 木の葉のように 軽く眩暈を覚えた

酔いどれ渓師の一日 <第三十七話>赤い水玉模様を着込む少女 Dolly Varden(下)に続く